道について

「香道」は、「香木をたいて楽しむ芸道」とされています。
「香木」は、東南アジアの産で、天然成分のために、香りとしての再現性が低いことが特徴です。
樹木やハーブ・アロマなどの香料は、皆、再現率が百パーセントです。
「香木」が古くから珍重されてきた理由は、再現率が低いことと得も言われぬ良い香りがあるからです。
古来、日本人の先輩たちによって、「六十一種名香」、佐々木道誉の「百七十七種名香」など、多くのコレクションが形成されました。
「香木」は、高いものでは「一グラムが金(今では9,000円ぐらい)の十倍、百倍」という値が付くものであったために、広く普及することは難しいものでした。

香道の

宗教としてのはじまり

仏教の伝来は、欽明天皇の世、五三八年・五五二年の説があります。
蘇我氏の「崇仏」と、物部氏・中臣氏の「廃仏」との抗争の後、聖徳太子によって、仏教の受容が確定しました。

仏教で使う「香木」は、人の心と体を清め、空間を清める働きが、神道の「穢れを払い・清める」精神と合致して、神仏習合の流れを作りました。
仏教で、香木をたくことを「供香ソナエコウ」と言います。
また仏教では、仏前に供える三つのお道具を「三具足ミツグソク」と言います。
お香(炉)と、お花、御燈明(蝋燭ロウソク)のことですが、この3つの中心に「お香炉」が置かれます。
神道でも、元旦の朝に、「四方拝シホウハイ」という行事で、お香をたき、日の出をお迎えいたします。

仏教がもたらした「香木」や「香の文化」は、時代によって様々の姿を私たちに伝えています。
キリスト教では、イエスの誕生の時にかけつ駆けつけた「東方の三博士」のもたらしたもののひとつが「香木」です。礼拝では、キリスト教・イスラム教ともに「お香」が焚かれます。

平安時代(貴族のたしなみ)

『源氏物語』をはじめとする平安文学が伝えるのは、「薫物タキモノ」という、練り香です。唐では、工業製品であった「薫物」は、日本では貴族の自家製でした。
右方・左方に分かれ、香りの優劣を競う「薫物合わせ(香合わせ)」、着物などに香りを移す「薫物の伏籠(ふせご)」など、香りを楽しむ様々の文化が生まれ、楽しまれました。

鎌倉~室町~江戸
武士の時代(香道の成立)

武士の時代になり、香木の時代となりました。
香木をお香炉に埋めて、間接的に熱が、香木に伝えられるようになるのは、室町時代のことです。
有名なのは、織田信長の時代の「蘭奢待」、豊臣秀吉の時代の伊達政宗のお香の会など、有力武将や近衛家などの貴族によって、複数の種類の香木を使う「組香」が催されました。

「香道」と表現されるのは江戸時代の中頃以降になります。

京都御所の中の公家町にあって、全国の神社を統括していた「白川伯王家」の初代学頭の「臼井雅胤マサタネ(香道での名前が、猿島帯刀サルシマ・タテワキ)」が、「香道御家流」を立てました。
香道が古くて由緒があるものに見せるために、三條西実隆を始祖とし、宮中に「御香所」という役所があるように、騙ったことでその後の香道の歴史の混乱の原因を作りました。

品大枝流の香道

「香道」は、「香木」という高価なモノを素材に上流階級の文化として継承されてきました。
歴史・書道・絵画・工芸・華道・建築・作庭・暦・歳時記・和歌・茶道・食文化・布の文化・紙の文化・など、あらゆる文化領域が複合しているのが、「香道」です。

「香道三品大枝流」は、貴族の文化の流れですので、「やり方(所作)の統一」を目指しません。
香道三品大枝流の理念は、「日本文化の原理を知って、やり方は自由に、表現は、上品に、雅に、より洗練されたものを目指して」、というものです。
他の香道の流派のことをご存知の方からは、「和気藹々としている」と驚かれますが、香道は多くの文化の複合体ですので、皆それぞれ興味のある所から入ってよいと思います。

現代社会ではともすれば「早く、効率よく、結果を出して」とせかされ、結果だけが、判断基準になっています。
初代宗家の三條西堯山先生は、「香道は、人間形成の一つの道である」ともおっしゃいました。
「香道は、情操教育の一分野である。われわれの感情を暖かに導き、豊かな心で人生を全うするための」とも言っておられました。
その教えを継承し、お伝えしていきたいと思います。